おもいきった事かも知れませんが、皆さんも考えてみてください。
幸福も不幸も無く、ただ流れとして生きるがあるのでは?その流れの中の淀みとして幸、不幸という感情体が生じるのでは?
それをふまえて、幸、不幸というのであれば、幸福な事(時)もあれば、不幸な事(時)もあるのが生きるという事で、いずれであれ、その生は肯定的であると思います。(バタイユが幸福になることを拒むと言ったのも
反語でしょう)
性善説も性悪説も的を外していると思います。本性としての善も悪もなく、ただ生きるが在るのではないでしょうか?(孟子と荀子には申し分けありませんが)
無為の為、なにも為さないことを為すというのも逆説的で面白いと思います。字数の関係で深くは言及しませんが、さわりとしては良いでしょう。(老子)
以上、三考でした。
幸福も不幸も無く、ただ流れとして生きるがあるのでは?その流れの中の淀みとして幸、不幸という感情体が生じるのでは?
それをふまえて、幸、不幸というのであれば、幸福な事(時)もあれば、不幸な事(時)もあるのが生きるという事で、いずれであれ、その生は肯定的であると思います。(バタイユが幸福になることを拒むと言ったのも
反語でしょう)
性善説も性悪説も的を外していると思います。本性としての善も悪もなく、ただ生きるが在るのではないでしょうか?(孟子と荀子には申し分けありませんが)
無為の為、なにも為さないことを為すというのも逆説的で面白いと思います。字数の関係で深くは言及しませんが、さわりとしては良いでしょう。(老子)
以上、三考でした。
作者氏名 | 平石 直之 |
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年齢 | 52 歳 |
市町村 | 箕輪町 |
障がいの種別 | 精神 |
エピソードや感想 | つらつら思うことを書いてみました。よろしくお願いします。 |